考察・感想★劇場版タイバニ -The Rising-(ライジング)// 「good night,TIGER&BUNNY」

 

※映画の内容ネタバレあり 長文※

 

 

 

 劇場版タイバニライジングについての雑感まとめ

→→「good night,TIGER&BUNNY」

 

 

 ファン待望の完全新作映画が公開された。「劇場版 TIGER & BUNNY -The Rising-」である。2013年の秋には公開予定だったこの作品は、4ヶ月の延期を経て先日2月8日に封切られた。テレビシリーズが完結してから既に2年以上。多くの人々にとってはタイバニは「かつて人気を得たアニメ」または「いまだ女性人気に支えられている腐女子向けアニメ」のイメージが強いはずだ。このタイミングでの完全新作となる劇場版。そんなライジングの関する雑感をとりとめなく書き留めておく。

 

**驚

 まずライジングを見て最初に驚かされたのは、その絵柄の違いだ。ライジングはテレビシリーズを担当したさとうけいいち監督ではなく、前作のビギニングから新たに米たにヨシトモ氏が監督を務めている。他のスタッフがほぼ相違ない中、監督の違いというものが最も目立つ変更点と言えるだろうが、それにしてもこの絵柄の違いには予告の時から驚かされた。それでも私は、実際にアニメーションとして動けばまた違う印象もあるだろうと好意的に受け止めていた。

 しかし実際はなかなか慣れるものではなかった。上映前に「5分でわかるTIGER&BUNNY」というシリーズの振り返り映像が流れるのだが、すぐに始まる劇場版で比較ができてしまうが故に、2人の顔の違いに再び戸惑った。「テレビシリーズの完結編」の位置づけのつもりで見に来る私のような人間には、この別人のような顔つきはなかなかハードルが高かった。アバンパートもなく、いきなりテーマソングが始まったのも意外だった。

 とはいえ、劇場版になって絵柄が変わるということはどんなアニメーションにもよくある話ではある。これについては慣れてしまえばというところで、話を進めよう。

 

 率直に結論からいえば、密度の濃い痛快ヒーローアクションに仕上がっていた。なんといっても見どころは、後半にたっぷりと収録されたアクションシーンの連続だ。CGを駆使した、スピード感たっぷりのアクションはテレビシリーズとは比べものにならないほどの迫力。特にハンドレッドパワーによるタイガーとバーナビーの共闘シーンは圧巻だ。男性はもちろん、性別問わずテレビシリーズでのアクションに物足りなさ、ちぐはぐさを感じていた人にとって、まさにキャッチコピー通りの夢に見たヒーローアクション。実際上映後には「かっこよかった!!」という感想があちらこちらから聞かれた。ワイルドタイガーのワイヤーアクションも、他のヒーロー達のアクションシーンについてもかなりのスケール感を感じさせる。

 そして今回はタイガーとバーナビーだけではなく、他のヒーロー達にいろいろな意味でスポットの当たる群像劇スタイルの物語であったことも取り上げておくべきだろう。最も大きく、かつわかりやすくフィーチャーされていたのはオカマキャラのファイヤーエンブレムことネイサンである。ファイヤーエンブレムとドラゴンキッド、ブルーローズたち女子組のエピソードとバトルには思わず涙を拭った人も多かったのではないだろうか。

 さらには主人公である能力の減退した自身と葛藤する虎徹の孤独な姿。また新たなパートナー・ライアンを得たバーナビーの成長など、見どころはたくさん用意されている。100分という時間が短く感じるほどだ。

 

 初日舞台挨拶ではそれぞれの声優が、それぞれの言葉でTIGER&BUNNYに対する熱い思いを語り、私には大変興味深いものとなった。特に平田さんの仰った「お姫様抱っこ、あると思ってた人?」という質問と、森田さんの仰った「一分の隙もない」「ライジングは新TIGER&BUNNYとも言うべき作品」、そして井上さんや岡本さんの「さとう監督のタイバニから、この劇場版に~(詳しいニュアンスを失念)」という言葉たちが、私の胸に強い印象を残した。

 

**「お姫様抱っこ」とはなんだったか

 平田さんの言葉にあるように、TIGER&BUNNYといえばやはりお姫様抱っこの存在を抜きにしては語れないと私は考えていた。これを言うとすぐに「腐女子」の単語を引き合いに出されることが多いのだが、ことはそれほど単純な話ではない。

 タイガーががんばりすぎて情けなく高所から落下する→それをバーナビーが受け止める、という演出は、テレビシリーズの一話において非常にインパクトが大きかった。アメコミ的ヒーローものを象徴する救出スタイル。この見せ方によって、後先考えずに一人で戦ってきたワイルドタイガーと、それを支え、受け止める有能(実際はたくさんの欠点もある)な相棒の登場を一瞬で客に認知させた。まずはハプニングとしての「お姫様抱っこ」。初回のこれは視聴者を釘付けにする役割を担っていた。

 その後、この演出は再び登場する。シリーズ中盤、橋から落下するタイガーをバーナビーが華麗に迎えに来て「ちょっと太りました?」などと声をかけるシーンだ。

 これについてはさすがに女性が喜ぶ余地がありすぎるのではないかと思った節もあった。だが、それ以上にやはり「お決まりのシーンがお決まりのパターンでやってきた!!」というカタルシスに私はとても高揚した。ヒーローものはこうでなければという満足感と、いくら相棒同士といってもやりすぎなんじゃ?という行動や台詞に対して、わきあがってくるコメディ的な笑いの共存。その絶妙なせめぎ合いと混ざりあいが、私にとってはTIGER&BUNNYのおもしろさそのものであった。二度目のお姫様抱っこで窮地を脱したのち、背中合わせで2人が戦いに臨むという場面への流れもまた実にヒーローものらしい。すれ違いやミスすることがあっても、いざとなればビシッと決めるタイガー&バーナビー。絶好の対比だ。その後のジェイク戦でくじけそうになったバーナビーを、今度は虎徹が励まし、そっと肩を支える側に回るというのも「お姫様抱っこ」の演出があればこそ地味に対比が生きてくるものであった。虎徹はバーナビーのようにセンセーショナルなやり方ではないけれど、年若い相棒をしっかりと支える存在なのである。

 そしてテレビシリーズの最終回。最大のカタルシスは用意されていた。ガラスの天井をぶち破って落下する二部リーグのワイルドタイガーワンミニットは、ラストのラストで、やはりバーナビーによってお姫様抱っこされる。2人の再会、そしてコンビ再結成からのコミカルなやりとりは続いていく日常を感じさせるものだった。最終回の映画館ライブビューイングで、お姫様抱っこの瞬間に涌き上がった歓声のなんと大きかったことか。女性達の高い声には過剰な興奮が込められていたこともあっただろうが、お約束通りのお約束が到来したことに誰もが歓喜したのだ。

 

 つまりお姫様抱っこは2人のパワーバランスを示すものから、2人の絆を示すものへと段階を踏んで昇華され、TIGER&BUNNYの代名詞となったといえる。男同士の友情や絆が同性愛っぽく見えるというのはもはや定説であり、また西田征史脚本の持ち味ともいえるコミカルな部分でもある。「魔法少女まどか☆マギカ」のほむらとまどかなどにも通ずるところがあるが、強すぎる絆はギリギリにまで踏み込んだ部分を描くからこそよい。踏み込むからこそ同性同士のバトルものや友情ものなどは際だったおもしろさとなる。そこに対して盛り上がることについては、男性も女性も関係ない。逆にそこを意識しすぎるあまり、変なところで遠慮をすればおもしろさも熱血度も薄まってしまう。そのあたりを振り切っていたからこそ、タイバニは多くの視聴者を引きつけた。

 女性を喜ばせるためだけに、お姫様抱っこは存在したのではない。タイバニがタイバニらしくあるために、お姫様抱っこはあってしかるべき面白要素であり、ファンサービスであり、胸熱の熱血ポイントだったのである。

 

 さて一方のライジングには、平田さんのコメントにもあったように「お姫様抱っこ」がまったく登場しなかった。期待を煽るシーンは随所に登場するにもかかわらず、まるでその期待を裏切るかのようにシンプルなシーンが続いた。

 まず冒頭の落下シーンではバーナビーは用事に出かけていたため、虎徹の落下の瞬間に間に合わない。後半の高速道路からの落下シーンでも、虎徹は一度自力でしがみつき、二度目はバーナビーによって腕を掴まれ、救い出されることとなる。

 徹底した「お姫様抱っこ」の排除。これはライジングの姿勢を物語るものとも捉えられるだろう。制作陣の強い意志。「新TIGER&BUNNYは、こうなんですよ」という視聴者に対するメッセージであり、宣言とも受け取れるのである。

 私にはこれがたいへん安直な発想だと見えてならなかった。テレビシリーズのたった数ヶ月後を描くという最終回から連結する流れを組んでおきながら、テレビシリーズで培われたカタルシス演出を捨てたのである。しかも一度のみならず、三度もそれを匂わせる演出を入れたにもかかわらず、だ。シリーズを継続して見てきた人の期待を三度も裏切っているのだ。

 これを「キャラクターの成長を描くため」「虎徹とバーナビーが互いに成長し、対等な関係性に至ったことを暗示するため」と好意的に解釈することは容易だ。だが真にTIGER&BUNNYにおける「お姫様抱っこ」の演出のもたらす意味を考えるならば、これを簡単に切り離すことは、テレビシリーズで培われた本質そのものを切り離すことにも等しい。

 言うなれば、行きつけの料理店に行って「今までお出ししていたテレビシリーズは、本来私たちが作りたいと思っていたTIGER&BUNNYではありませんでした。こちらが本当に作りたかったTIGER&BUNNYになります」と、同じ素材を使って違う料理を出されたかのような印象を受けるのである。せめてガンダムシリーズなどと同様に、店の看板を掛け替えてからにすべきではなかったか。

 

**失われた表情、芝居を邪魔するデザイン

 くわえて今回はシリアスな展開が多めということも手伝ってか、登場キャラクター達の表情の硬さも気にかかった。テレビシリーズに比べるとキャラクターの表情から心理を読みとる難易度は増している。あれだけ生き生きとしていたキャラ、特に虎徹とバーナビーが、いきなり大根役者になってしまった印象を拭えなかった。それは声優陣の演技が、ということではない。アニメーションとしてキャラクターの表情から感情が見えてこない、という点においてである。シリアスであることと、表情が豊かなことは共存できなくはないはずだ。群像劇で個々の役者が、全員「パッと見でわからない」演技をされては見るほうが困る。大きく頭をかきむしる虎徹の姿などはわかりやすく引き立っていたが、あのような心を掴まれる感情的シーンはもっと多くあってもよかったように思う。

 

 そのうえ新しくなったスーツデザインでは、タイガーやバーナビーの眉間の部分にフェイスオープンマスクの尖った部分がかかるため、肝心なシーンでキャラクターの目線にその突端部分がかかることがしゅっちゅう見受けられた。細かい注文にはなるが、静止画ならばまだしも、役者の表情が瞬時に見てとれないというのは、たくさんのキャラの感情や個性を短い時間で理解させる群像劇においてやはり致命的と感じる。

 

**ファイヤーエンブレムとドラゴンキッド

 なお本作品で大きなウェイトを占めるファイヤーエンブレムのトラウマエピソードについては、昔からのよくあるテンプレではあるものの、よくぞこの劇場版で思い切ったという印象を受けた。だが劇場版でやるほどのことではなかったし、最後の自分を認めるシーンなどでは余韻が少なく「私は私」であっさりと花弁が舞って終結し、しっとりと入り込めるだけの余韻がなかった点などが悔やまれる。直近のアニメでは、心に抱えたもう一人の自分と対峙する内容に「ペルソナ4」があったが、それらにあったようにもっと情感たっぷりに、しっかりとファイヤーエンブレムの葛藤からの解放を味わう時間がほしかった。

 またファイヤーエンブレムに絡む話として、テレビ版の最終回・・・両親の前でワンピース姿を披露したドラゴンキッドの気持ちもふと気にかかった。ショートカットにしてボーイッシュに磨きをかけ、ファイヤーエンブレムのジェンダーに束縛されない強さにも励まされる今のドラゴンキッドが、たった数ヶ月前に両親に向けた女の子らしい笑顔と心の成長は、いったいどういう形で胸にしまい込まれたのだろう。

 

**まるでシュナイダー

 やや話は飛躍するがこのように女子組をはじめ、他のヒーローの魅力がよく伝わってくる今回のような群像劇スタイルをとるのであれば、前売り券から始まった宣伝戦略は軒並み失敗だったといわざるを得ない。

 虎徹とバーナビーをとことんまで切り離して女性客を不安に陥れ、後半少ししか登場しないルナティックをあたかも超重要なファクターであるかのように前売券で扱い、ライアンをとことんまでコンビを引き離す憎まれ役に位置づけた。あれだけライアンがポップで愛嬌のあるキャラであり、かつヒーロー全員が活躍する物語だったのなら、もっと女性キャラやライアンを含めたヒーロー全員の魅力をさまざまな世代にゆっくりアピールすることは可能だったはずだ。

 2011年当時、オンエア前にはヒーロー全員活躍系のイメージを与えておきながら、実際には虎徹とバーナビーに焦点があたる構成だったテレビシリーズと、今度は真逆のことをやっている。ヒーローみんなが活躍する映画を作っておきながら、誰よりも宣伝サイドが「相棒もの」としてしか本作品を捉えていなかったことは作品に対する信頼のなさを滲ませる。数字だけを追う狭量さを露呈した、大きな戦略ミスだったのではないだろうか。

 今となれば何の理想もないシュナイダーに買収され、利益のみに走るアポロンメディアに翻弄されたヒーロー達の姿をそのまま見るようですらある。

 

**敵キャラ、ゲストキャラの背景

 話を戻そう。群像劇であるが故に問われるのは演出と脚本のバランスであるが、数が多すぎてなんともあらゆるところが片手落ちとなった印象は、敵キャラ側にもあてはまる。

 秘書が女神伝説にこだわった理由はあまりに薄く、納得できる部分が少なかった。たとえばバーナビーが父や母に絵本を読んでもらうシーンと重ね、アンドリューの父がアンドリューに女神伝説の絵本を読み聞かせていたとする。父親が息子に「悪は悔い改めなければならないんだよ」とやさしく語り聞かせていた・・・などというワンシーンでも挟まっていれば、まだ印象は違っただろう。その程度のことでもあれば、最終的に彼がシナリオ上の意味もなく半裸で、説明のない能力を使っていたところなどにももっと目をつぶれたかもしれない。

 くわえて3人のNEXT達がどうして秘書に加担したのかも、彼の独白だけでは理解しがたかった。シュナイダーに騙されたという恨みと過去についてはわかる。だが寺院の取り壊しという憂き目にあっていたあの元老僧が、個人の怨恨や金銭などと言った現金な理由でもってあれほどの犯罪に加担した過程もなかなか想像しにくい。3人にはアンドリューに特殊な機械を貸し出されこそすれ、洗脳されているような演出は特に見受けられなかった。自分の意志で復讐を果たすのではなく、復讐に花を添える女神伝説の演出を買って出るにはそれなりの理由がほしい。だがこの辺りを描きすぎれば、物語は古さ漂う2時間サスペンスの形をとりがちなので塩梅が難しかったのかもしれない。

 

 また折紙サイクロンの擬態能力による大逆転劇は、サラッと見ているだけでは何がどうなって逆転したのか解説もないのでとても解りにくかった。一方でロックバイソンのカッコ悪さ←→終盤バトルでの登場シーンのかっこよさなどは何度見ても大変おもしろく鑑賞できた。

 

**新キャラライアンとバーナビー

  そしてシュテルンビルト市民とのシンクロ率

 個人的にがっかりだったのは、ライアンの存在感に拍子抜けさせられたことだ。とても魅力的なキャラであったがゆえに残念感はいや増しだ。あれほど広告や前売りで煽っておきながら、中村悠一さんが「キューピッド」と称した立ち位置に甘んじ、最後は「こいつの相棒は~」と謎のアピールをして去っていく。ここにも演出不足を感じた。最後にどうしていきなりそんなことを言い出すのか、あのタイミングでの彼の心情を慮るためのヒントが欠けていたように思えた。

 バーナビーについてはもはや別人の域に達していて、「5分でわかる~」のラストで虎徹とコミカルにやりとりしてからの数ヶ月に、どうやってそんなにも大人びた人間性を獲得したのかがむしろ気になるほどだった。楓もまだ小学生だったと思い出せたのは最後のおひさまの詩を読んだあたりで、それまでは容姿も言動もすっかりオトナで驚かされた。

 

 最後に、ワイルドタイガーが市民の声で一部リーグに復活する演出も唐突すぎる印象が拭えない。がむしゃらに頑張るあんた(ワイルドタイガー)があれほど市民に好かれているなら、何故二部リーグがシュナイダーに潰された段階でなんの動きもなかったのか。どうしてワイルドタイガーのホームページには、ひとつのメッセージも送られていなかったのか。せめて、たった一通のメールや書き込みに励まされる虎徹の姿があったならと思ってしまった。

 またヒーローの活躍に対する市民のリアクションは、ほぼ途中で挟まれるヒーローズバーでの単調な盛り上がりシーンのみ。そこへきてラストでのあの市民の盛大な声援には、ちぐはぐなズレを覚えた。そこまでの映画の流れで自分が抱えていた「市民にそっぽを向かれても、ここにいる私はワイルドタイガーとバーナビーたちを応援しているぞ!」という、どちらかというと楓達に近い目線の感情といきなり噛み合わなくなってしまい、一体感・・・いうなれば市民感を得ることができなかったのである。

 

**あたたかなファンの想像力

 いろいろと考えながら劇場を出てカフェに入ると、周りはすべてライジングの鑑賞を終えた女性達ばかりだった。彼女たちは興奮気味に数々の考察を話しあっていた。

「あのシーンでおじさんがこう言ったのは、こうだったからじゃないか」「おじさんはやっぱり市民に愛されていたね」。次々に会話が耳に飛び込んでくる。

「最後にライアンがバディをアピールして去っていったの、いきなりすぎなかった?」

「それだけ賢くていい人だったってことだよ!! あと、その時にはもう大富豪からオファーが来てたからに決まってるよ」

 聞きながら私は、彼女たちの想像力や理解力をとても羨ましいと思った。足りないと感じていた部分が次々と言葉になって溢れてくる。私は思う。そんなものは映画のどこにも決定づけられていなかった、と。脚本はまるでテレビ版とは別物のようになっていて、かつてはあったはずの芯が、どこにも通っていないようになっていたではないか、と。

 

 どうして普通の人が消火器一本で対応できるファイヤーエンブレムの暴走する炎に、市民の危険をほったらかしてでもブルーローズがかかりっきりだったのか?

 それは自分で大切な仲間であるファイヤーエンブレムを助けたかったからだ。

 どうしてあんな高所から落下した楓が服も破れず、ほかにまったく人もおらず、ひとりぼっちで怪我もなく無事だったのか?

 それは楓がネクストで、なんとかうまいことやったからだ。

 

 すべてにつじつまを合わせた完璧なシナリオというものは難しい。設定自体がゆるいタイバニならなおさらだ。だが、だからこそ時に細やかな、または時に大胆な演出で、観客を「納得」させてしまう流れが必要ともいえる。金を払って観る、一期一会が基本の映画で、リピーターのみならず新規ファンや男性ファンの発掘を目指して作られた本作品ならば言わずもがなだ。

 

 そういえばテレビシリーズもこんなものだったろうかと、私はぼんやり思い返していた。楓の磁石能力は誰から?というような疑問もあったし、神社でハンドレッドパワーの切れた虎徹が倒木を持ち上げたり、その後やけに豪快に崩れ去る神社だったり。バーナビーが寝不足だかでいきなり倒れ、にもかかわらず虎徹は虎の乗り物に乗って娘に電話をかけて、最後は喧嘩してビンタして飛んで逃げる。超展開の数々に、ぽかんと開いた口がふさがらなかったものだ。

 だがそういった欠落とそこから生じる想像の喚び起こしは、テレビシリーズとライジングでは微妙に異質なものだと私には思えた。テレビシリーズは特に後半、「雰囲気優先で演出考えただろ!!」と突っ込まざるをえないような超展開が目立つ。しかしそこにはどこか人間らしい、考えても考えても理解の及ばぬような、ある種の深みのある浅はかさがあった。支離滅裂ともいえる突飛さは感情と勢いからくるものであり、どこか昭和的でおおらかで、それが理不尽さと一緒になって笑いに昇華された。「巨人の星」の大リーグ養成ギブスを見て、本人達は至って真剣でこちらも泣けるのに、いったん現実的に考えると「あるあ・・・ねーよ」になる。想像でフォローしきれないほどのド派手なブレ。真剣で、ギャグ一歩手前の熱血。そういった意味において、テレビシリーズのタイバニは昭和寄りであり、強引で、古さがあったと言える。

 

 一方のライジングはというと、同じ浅はかさでも質が違う。超展開はさほどなく、どこをとってもわりとすんなり浅はかな脚本だった。大人の事情や理屈で理解できる範囲の足りなさ。ズレの振れ幅も少なく、映画全体を通してどこか繊細。問答無用で励まされる雰囲気を醸し出していたテレビシリーズとは違って、どこかネガティブなイメージに包まれていて、大人が作った作品がライジング、といった印象だ。

 ズレの振れ幅が少ないということは現実的であり、足りないことに対してかなり単純に補うための回答が導き出せるということでもある。ライジングはさらりと理解しやすく、現代的で消化しやすい。想像で補える余地もたくさんありつつ、想像でなんとかしなければならないほどの致命的な超展開(崩壊)もない。時代に即した楽しみやすいアニメに転換したといえるだろう。

 いずれにせよ、バーナビーが自分を「俺」と言ってしまうような引っかかりや、心をざわつかせる揺らぎが、ライジングにはいっさい感じられない。計算に寄って整えられ、削ぎ落とされ、まさしく一分の隙もない安定感こそがライジングの持ち味であり、ゆえに初見の人にとってもわかりやすい仕上がりになっている。だがそれは、非常に表面的な安定感だ。見る人から見れば、それがハリボテの安定感であることはきっと見ぬかれてしまうだろう。

 

**情熱に溢れた欠落がテレビシリーズの核心

 ライジングと比較した時に、テレビシリーズのタイバニがあれこれ足りないアニメだったことは間違いない。序盤から中盤までの密度や完成度の高さは深夜アニメとは思われぬクオリティだったが、後半はいろいろと粗も目立ったのがテレビシリーズだった。ライジングを観た後に見なおせば、作画の不安定さもかなりのものだ。

 とはいえ私にとっては、今回のライジングも完璧とはいえないものだ。だがテレビシリーズのヒットを背景に手間と金をかけ、絵は美しくなり、アメコミ風かつ特撮風にもなった。テレビシリーズよりはるかに見やすくなった。

 だから完成度として足りない足りないと言うだけで、ライジングを責めることなど到底できない。テレビシリーズにはそれ以上に足りないところなんてたくさんあったのだから。

 

 だが一方で今、テレビシリーズに思いを馳せる人もいることだろう。男性が夢中になれるほどスーツやアクションのかっこよさが際だっているわけでもなく、能力に応じたバトルのバランスもとれず、隙だらけ。そのくせ人の心を動かすドラマがあった、あのテレビシリーズだ。

 ツッコミどころだらけの脚本も、設定も、力で押し切るような強引さによって抵抗しがたい引力を持ち続けた番組だった。「こまけぇこたぁいいんだよ」を天然で実行されて笑うしかなく、不意に涙と笑顔を誘うもの。理屈では説明がつかないパワーがあった。

 

 テレビシリーズと劇場2作品を見比べて思う。

 さとうけいいち監督が持っていた何かが、テレビシリーズにはあった。劇場版はそれがなく、代わりに新しいものが生まれた。

 さとう監督だからこそ作り得たタイバニというものがあるのではないかという仮説は、今回のライジングではっきりと証明された。口コミから一大ブームを巻き起こし、多くの人を励まそうと作られたTIGER&BUNNYの熱の核となる魂はデザインや脚本にも少なからずあったのかもしれないが、さとう監督の中にもまた大きく存在していたのである。

 

**かっこいいタイバニで広がる未来

 歳月が過ぎ、「お姫様抱っこがない」ライジングは、順当なアクションヒーロー映画となった。女子に媚びると言われるような演出は排され、かわいいと称されることもあった虎徹の体型から骨格まで変化させてかっこよさを追い求め、タイガーとバーナビーの二人だけに終始しないヒーローが居並ぶ定番アメコミ風ヒーローものに進化した新TIGER&BUNNY。これは西田征史氏ががっつりと脚本を手がけ、今のスタッフだからこそ作り得たものと言える。

 そしてこのライジングを契機に、もはやタイバニは知る人ぞ知る深夜アニメではなくなった。多くの広告を展開した。CMが放映され、映画館の前には大きな広告、東京メトロを席巻するポスター、全国での前作映画ビギニング放映、たくさんのスクリーン数。とんでもない規模だ。私は絶賛する女性達をたくさん見かけたし、Twitterのネタバレタグには考察と讃辞があふれ、映画を見終えて売店に行けばグッズはすっかり空っぽだった。コラボ企画も目白押しで、初夏にかけては全国で特別展も予定されている。

 とはいえ、私が求めているのは動いている虎徹やバーナビーやヒーロー達がしっかりと生きている物語であり、例えば書き下ろしなどで丁寧に作られたグッズや記事、イラストといった、ファンと作品とが信頼し合えるような関係性である。それさえ感じられるなら、どれだけ待っても構わない。判で押したような焼き増しデザインのグッズを買い集めたいわけではないし、グッズだけは売れるアニメと言われるようになってほしくない、と思う私のようなファンは、多くの女性ファンとは違って少数派なのだろう。

 

 私は深夜の地味な放送でありながら、口コミで評判の広まったテレビシリーズのTIGER&BUNNYが今も忘れがたい。女性に媚びたといわれる演出が入りまくり、虎徹がおじさんというほどおじさんに見えなくても、「おかしいどうかしてる」と言われるほどの極端なストーリーがあったとしてもだ。相棒の死に際に「チャーハン練習してるんですからね」「睫毛長げぇんだな」と言ってしまう、見ている側が泣けばいいのか笑えばいいのか、わけのわからない混乱さえ引き起こすセリフが散りばめられた、テンポのよいコミカルとシリアスの絶妙さが好きだった。本当に泥臭くがむしゃらな虎徹とバーナビー、ヒーロー達の姿に今も心打たれる思いである。

 しがないサラリーマンたる私は2年前の当時、テレビシリーズの面白さとハチャメチャな行動原理を持つ虎徹の姿に強く励まされた者の一人だった。ハチャメチャだからよかった。テレビシリーズには、エゴがあった。信念、我侭、ずさんさ、適当さ・・・人が持つ、理屈では整えきれない要素があるからこそ頭で処理できず、考察でもねじ伏せられず、共感する心でしか理解しえない何かが生まれる。タイバニにはそれがあった。そこに問答無用で笑わされ、泣かされた。ゆえに合う合わないは人を選ぶが、考えさせられるよりも感じさせられるアニメだったことは間違いない。

 だがこのままライジングの流れをくみ、同タイトルで続編が作られたとしても、おそらくはあのテレビシリーズ独特の空気を味わうことはできないだろう。過去シリーズにこだわり回顧するタイプのファンの気分が今ならよくわかる気がする。

 

**まとめ

 ライジングはエンターテイメントとして親しみやすい作品だ。映画としては公開初日から何度となく大雪に見舞われる天候だけがじつに不運だが、それは同列で上映されている映画も同条件なので気にしても仕方がない。何があろうと、おもしろいものは話題を呼び、自然と客がつく。かつてのテレビシリーズがそれを証明している。

 新TIGER&BUNNYが目指す地平線の向こうに、どんな道が続いているのだろう。

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Good Morning,NEW TIGER&BUNNY

Good Night,TIGER&BUNNY...